谷口礼央医師が平塚市民病院消化器内科部長に就任

谷口礼央医師が平塚市民病院消化器内科部長に就任いたしました

[谷口礼央医師のコメント]

 2023年4月に平塚市民病院消化器内科部長を拝命しました谷口礼央(れお)と申します。
 部長就任にあたり、当社団法人へ何か寄稿を、との御依頼を頂きました。駄筆ながら、自分のことに加えて、当社団法人についてご紹介し、当法人への加入を検討中でこのHPを見て下さっている若い先生方の将来のご参考になればとの思いで書かせて頂きます。
 簡単に自己紹介から始めさせて頂きます。私は少し異色な経歴をしております。早稲田大学理工学部機械工学科の大学・大学院を卒業の後(1991年大学入学ですが、時間が経ったので現在は学部学科の名称が変わっております)、システムエンジニアとして勤務し、金融システムを構築しておりました。ところが、思うところあり、人生の道を変更し、2001年から横浜市立大学医学部へと通い始めました。当時、私は28歳。現役の同期とは10歳の年齢差がありましたが、みなさま良い方ばかりで、おじさん扱いせず、仲良くしてくださいました。
 2007年に横浜市立大学を卒業の後、そのまま、同大学にて研修を行いました。人より年齢がいっていることもあり、何科に進むべきかについてはとても悩みましたが、消化器内科を選択しました。医局としては、当法人の前身である、横浜市立大学第三内科(当時は代謝・内分泌科+消化器内科でした)を選択致しました。
 この選択の根拠は3つありました。1つ目は、システムエンジニアから道を変えた時の理由に、消化器内科が合致していると感じたこと。2つ目は、単純に内視鏡が面白いと思えたこと。3つ目は、数ある消化器内科の中でも第3内科はビジネスライクな聡明さがあると感じたことです。
 まず1つ目です。私がシステムエンジニアから道を変えた理由の1つに、「IT技術は面白いし色々なことができるが、面と向かって直接、人を相手にすることが少ない。これから何十年も自分の時間を費やすものであるのだから、周囲の近しい人々に直接役に立てるような仕事をしたい」 というものがありました。その結果、転職先として辿り着いたのが医師という職業でした。話は少し飛びますが、生涯の内に、男性は2人に1人、女性は3人に1人、癌に罹患します。そして癌の中でも、その半数を消化器の癌が占めます。将来、自分の周りが年を取った時に、直接役に立てる診療科というものを考えた時、消化器内科はその目的に良くマッチしていました。実際、自分の家族や、友人、そして友人の御家族などから、相談を受けたりした時には、自分の選んだ道は間違っていなかったな、という気持ちになります。
 次に2つ目です。内視鏡が面白いと素直に思えたことも消化器内科を選んだ理由です。医学生のうちから自分は何らかの内科になるものと思っていましたが、なに内科なのかは決め切れていませんでした。そんな折、当法人の前身である第三内科を研修でローテーションした際に、指導医がこっそり内視鏡を握らせてくれました。その時、内視鏡が楽しいと思えたのが、消化器内科を選んだ決め手の1つでした。循環器内科のカテも面白いと思いましたが、内視鏡は早くから自分自身が術者となっていけること、内視鏡処置はチームプレイであり、まるで部活の様な楽しさがあること、ESDなどの内視鏡手術の発展により自分たちが治療まで行える範囲が増大してきていること、などをとても魅力的に感じました。以前の消化器内科は、術前精査を行うか、切除不能な患者様の化学療法を行うかでしたが、内視鏡手術の進歩により早期癌の治療を自前で完結できる道が開けてきた時代でした。また、勤務医や開業など、将来どんな道に進んだとしても、内視鏡技術は腐らないとも思えました。
 その点、現在の当法人は内視鏡を学びたい若手を育てるに十分な環境をもつまでに成長していると感じています。当法人の千葉医師を始めとするESDのスペシャリストの先生方や、細野医師を中心とするERCPのスペシャリストの先生方は、学会でも有数の存在力を放っております。関連病院の内視鏡手術件数を鑑みても、若手を育成するに十分な環境を提供できるような体制を構築できているのではないかと思われます。
 3つ目の理由です。私は早稲田の大学院卒業の時期に就職活動をしました。就職ではまず、自分が何をしたいのか?=どの業界に勤めたいのかを考えます。銀行、証券、商社、マスコミ、メーカー、サービス業など業種は多種多様です。そして、業種が決まったならば、次に考えるのは、その業種の中のどの会社に勤めたいのか?ということです。例えば、金融業界で働きたいと決めたなら、次に決めることは何銀行に勤めたいか?です。
 私は、前述の2つの理由で、消化器内科として働いていきたい、と業種を決めましたので、次に考えるのは、どの会社=どこの消化器内科で働きたいか?ということでした。当時は、横浜市立大学だけに限っても、第二内科、第三内科、センター病院と3つの消化器内科の医局がありました。他の大学まで考えると無数の選択肢がありました。しかし、大学は横浜市立大学で迷いませんでした。横浜市立大学の良い所として、旧帝大の医局と異なり、地方の関連病院が少ないことが挙げられます。すなわち、極端に遠い場所への異動がありません。神奈川か東京が生活範囲となります。私は実家が神奈川県南部ですし、学生結婚して既に家族もおりましたので、この点は魅力的でした(この特長は当法人にも受け継がれています)。また、学生時代から研修医まで培った人脈をあえて捨てる意味もありません。知り合えた方々はこれからの自分の人生にとって、大きな力となります。これらより、横浜市大の医局に入ることは最初から決めていました。ですので後は、第二内科、第三内科、センター病院の3つの内、どの医局に入るのか?という三択でした。
 この中で、第三内科を選んだのは、当法人の現在の代表理事である中島淳教授に、ビジネスライクな聡明さを感じたからでした。当時は、医局と言うと白い巨塔のイメージでした。しかし、中島教授にはそのような旧態依然としたところがありませんでした。当初から、人を集めるにはその人にとってのベネフィットが必要であり、それを用意するのが医局である、というお考えを持たれていたように感じています。人を集めるには、腕を磨ける環境があり、ペイがあり、資格がとれる、という環境が必要であり、そのような関連施設を集めるべきである、と早くから考えて行動されていたように思います。その行動力により、現在の当法人の関連施設は30近くまで増加しております。そして、その全てが神奈川か東京に位置しております。 
 最近は、従来の医局という形態を捨て、社団法人という形へ変化していく医局が少数ながら存在しています。当医局も、他に先んじて、社団法人という形態への変貌を遂げました。これにより、人事が少数の独断で決まるような日本の従来の医局のあり方から、運営委員会で民主的に決定するというラジカルな形へと進化を遂げています。いち早くこのような改革を取り入れていくという点も、中島教授を始め、当法人の中心を担う先生方の先見の明を示唆していると感じます。
 最後に、当院の紹介を少しさせて頂き、文章を締めくくりたいと考えます。平塚市民病院は、400床少々の中堅病院です。三次救急を行っており、その分、豊富な緊急処置数を誇ります。ESDは200件程度、ERCPは300-400件程度あり、若手の先生の教育に、十分に足る症例数を持つと考えています。消化器内科は年度により異なりますが、大体10数人程度で業務を遂行しております。病院を取り巻く環境としましては、海も近く、サーフィンをしている先生方が多数です。また徒歩圏内に広大な平塚市総合公園があり、ベルマーレのスタジアムやテニスコート、動物園、アスレチックなど、充実した施設を内包しています。ベルマーレの観戦を楽しむ方もおりますし、ベルマーレのチームドクターとして定期的に当院の医師を派遣しております。私自身は、ときどき総合公園で院内の方とテニスをしており、健康寿命の延長にトライしております。また、病院の近くがそのルートである湘南国際マラソンでは、大会の医療的サポートを行っております。また、ご自身で参加されている先生方もいらっしゃいます。
 当法人や当院に、魅力を感じて頂ける先生方がおりましたなら、アプローチをして頂けましたら幸いです。
 とりとめのない形となりましたが、今後の当教室、当法人の発展を祈りまして、私の文章を終わらせて頂きます。最後に、今回、平塚市民病院の部長を拝命する際にも、当法人の先生方には大変なプッシュとサポートを頂きました。この場をお借りして、深謝の意を示させて頂きます。

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